横浜市民なら知っておきたい【18区】の成り立ちと変遷
今回、旭区の特色を探ろうと横浜市の市民意識調査報告書を読んでみました。その結果は こちら ですが、横浜市18区の成り立ちにも興味を持ち調べてみましたので、ご紹介しておきます。
郷土史に興味のある方はご存じの通り、横浜市は、1927年に鶴見区・神奈川区・中区・保土ヶ谷区・磯子区の5区からスタート。その後、戦争中に9区となり、その後人口増により分区(正確には廃止新設)を重ね、1994年に現在の18区となっています。
1854年に日米和親条約が締結されたのが横浜村。人口数百人の寒村でしたが、1860年に横浜町、1878年に横浜区、そして1889年には横浜市が誕生しました。当時の市域面積は、横浜港周辺の5.4 km²(現在の中区・西区の一部)でしたが、人口は12万人余を数えていました。
その後、1901年の第1次市域拡張、1911年の第2次市域拡張を行い、1927年の第3次市域拡張に伴い、すでに書いた「鶴見区・神奈川区・中区・保土ヶ谷区・磯子区」の5区が置かれたのです。そして、1936年の第4次市域拡張で磯子区と中区が、1937年の第5次市域拡張で神奈川区が広くなり、1939年の第6次市域拡張で、初代港北区と初代戸塚区が生まれ、7区となりました。
「初代」と書いたのは、当時の戸塚区が今の瀬谷区・栄区・泉区を、港北区が今の緑区・都筑区・青葉区を含んだ区域だったからです(上図参照)。
さらに、中区から分かれて、1943年に南区が、1944年に西区が誕生し、9区となりました。南区は、現在の中区の西にありますが、当時の区域からは南側にあったため、この名があります。また、戦時中に分区したのは、人口増による配給の効率化や、空襲から市民が自衛する警防団の管轄が警察署であり、その都合に合わせたためと見られています。戦後は1948年に、10区目となる金沢区が、近隣14か町を編入して誕生しています。
その後、高度成長期以降、人口急増により、廃止新設方式による分区が4回行われ、1969年には、南区から港南区が、戸塚区から瀬谷区が、保土ケ谷区から旭区が、港北区から緑区が、分割新設され14区となりました。そして、1986年には、戸塚区から栄区と泉区が、1994年には、港北区から青葉区と都筑区が分割新設され、現在の18区となっています(以上細かい再編は割愛しています)。
なお、1969年の廃止新設方式以降、新しい区の名称は公募されるようになりますが、必ずしも一番応募の多かった区名が採用されるとは限らず、旭区は、なんと5位の名称でした(1位=西保土ヶ谷区、2位=港西区、3位=鶴ヶ峰区、4位=富士見区)。この件も含め、ご興味のある方は、下記のレポートなどもご参照ください。
●横浜市内18区の区名の由来(はまれぽ.com)
Ⅰ【区政施行時編】
Ⅱ【戦前・戦後編】
Ⅲ【昭和44年編】
Ⅳ【昭和61年・平成6年編】
●区の変遷(横浜市ホームページ)