【完全紹介】旭区内の畠山重忠ゆかりの地/全10箇所【改訂】

畠山重忠は、平氏全盛の時代の1164年、現在の埼玉県深谷市畠山(旧川本町)で生まれ、嵐山町に屋敷を構えていました。父の重能は、京都で平氏に仕えていましたが、1180年10月以降、重忠は源頼朝に仕え、智・仁・勇を兼ね備え、その清廉潔白な人柄から、頼朝からも信頼されていました。

存命中から武勇の誉れ高く「坂東武士の鑑」と称されたそうです。そして、源義経とともに、一の谷や屋島で平氏と戦ったと言われ、奥州征伐でも活躍し、頼朝が鎌倉幕府を開くときも力を尽くしました。しかし、その後、幕府の権力争いに巻き込まれ、謀略にはめられ、鎌倉に向かう途中、1205年、今の旭区鶴ケ峰付近で42歳の若さで討ち死にしたのです。畠山重忠について、詳しく知りたい方は、Wikipedia または 畠山重忠事典 をご覧ください。

旭区は、埼玉と鎌倉を結ぶ鎌倉古道(中の道)の途中に位置しており、多くの重忠ゆかりの史跡が残っています。今回、そのすべてをご紹介します。


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①鎧の渡し・鎧橋
鎌倉中の道が帷子川を渡る場所で、以前は川幅も広く、橋がないため渡し舟が使われていました。当時の武士は、鎧を頭上にかざして川を越えたので、この名があるようで、重忠も、そうして渡っていたのでしょう。「鎧の渡し」の碑柱は、②の「首洗いの井戸」の碑柱と並んでありますが、明治にでき2003年になくなった「鎧橋」の碑は、鶴ヶ峰駅から旭区役所に向かう商店街の途中にあります(下写真)。

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▲帷子川跡地を利用してできた「鎧の渡し緑道」
 
②首塚と首洗いの井戸
重忠の首が葬られたところと言われ、旭区役所の駐車場裏手にあります。現在は西向きですが、以前は南向きだったとか。また、そばには、首を洗い清めたという『首洗い井戸』があり、いまはなくなっていますが、碑柱と説明板は区役所駐車場敷地内にあり、道路から見られます。なお、たぶん重忠が大河ドラマに登場することもあり、老朽化していたその祠が2021年10月、建て替えられました(こちら参照)。

▲2020年9月撮影/クリックすると、詳細説明写真が出ます。


▲2021年12月撮影/クリックすると、全景写真が出ます。


▲2022年1月追加撮影/クリックすると、詳細説明写真が出ます。

③重忠公碑・さかさ矢竹
重忠没後750年を記念して、1955年に生誕地の深谷市と終焉のこの地に、有志によって建てられた碑です。その側には、重忠が死ぬ前に「我が心正かればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」といって、2本の矢を地面に突き刺し、その矢が根付き、毎年2本ずつ増えていったといわれる「さかさ矢竹」があります。現在のものは、重忠没後800年を記念して、2005年に植えられたもの。旭区役所そばの「鶴ヶ峰駅入口」交差点角にあります。


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④矢畑・越巻き
北条義時率いる幕府軍が重忠を取り囲んだという場所で、幕府軍の射た無数の矢が突き刺さり、まるで矢の畑のようになったり、身の周辺を腰巻きのように矢が取り囲んだりしたと言われることから、この名があります。鶴ヶ峰コミュニティハウス・鶴ケ峰本町公園プールの入口の道脇左側にあります。

 
⑤六ツ塚・薬王寺
重忠を含め一族郎党134騎を埋めたと伝えられる六つの塚(土饅頭)が、薬王寺の境内にあります。この寺は、元は旭区今宿にあり、1906年に焼失したため、1928年に移転・再建したもので、1908年には霊堂も建立されました。以来、命日の6月22日には毎年慰霊祭が行われ、現在の新装なった建物には重忠と内室「菊の前」の位牌が祀られています。旭区鶴ヶ峰2-14-1にあります。

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⑥すずり石水跡
重忠が陣を構えたとき、近くに湧き水があり、この水で墨をすったと伝えられています。住宅地内ですが、往時の地形が残っている感じがします。旭区鶴ヶ峰2-12-16付近にあります。


 
⑦駕籠塚
重忠の内室「菊の前」は、合戦の知らせを受け、急いで駆けつけました。しかし、この地で重忠が戦死したことを知ると自害し、その場所に駕籠ごと埋葬されたと伝えられています。以前は、鶴ヶ峰浄水場の中に、まわりを竹で囲まれた大きな塚があったそうですが、1955年に場外(浄水場西側道沿い)に移され、1974年、現在の姿に整備されました。


 
⑧清来寺
江戸時代末期に、重忠の武勇を讃えるために編纂された「夏野の露」という絵巻が伝えられています。また、境内裏山には、重忠の所持していた観音像が埋められている観音塚(鐘楼塚)がありますが、現在は標識もなく、藪に埋もれ見ることはできません。清来寺は、旭区今宿南町1985にあります。


 
⑨重忠公遺烈碑・畠山地蔵尊
旭区の万騎が原という地名は、元は牧が原と言われていたのが、北条勢が重忠を討つために数万騎あまりの陣を構えたことからついたと伝えられています。遺烈碑は、1892年、地元の有志57人により建立されました。同じ場所に畠山地蔵尊と畠山地蔵尊縁起碑もあり、ミニ公園のようになっています。さちが丘陸橋から、万騎が原郵便局に向かい登ってくる坂道の途中、左側にある大田小児科の道を隔てた向かい(右側)にあります。


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なお、上記の他に、今宿南町の高山橋近くに、重忠を射止めた弓の名手愛甲三郎が、重忠を待ち伏せしていたといわれる隠れ穴があったそうですが、現在は穴はありません。
 
※①③⑤⑥⑦は2020年9月撮影、④⑧⑨は2021年12月撮影。